フランス文学者や翻訳家、思想家など様々な顔を併せ持つ内田樹の著書「寝ながら学べる構造主義」を現在進行形で読んでいる。
読み始めたきっかけは、Amazonのkindle unlimitedにあったから(会員であれば無料で読める)。
「構造主義がどういうものか」は全く知らなかったし、そういう考え方が存在していること自体を認知していなかったから、構造主義というテーマに惹かれたわけではないのだけど、実際に読んでその内容に触れてみると、意外に面白い。
構造主義はソシュールやマルクス、フーコーやサルトルなど、その辺りの思想史に影響を受けながら編み上げられていった考え方のようで、読みながら「なるほど、そういうことか」と色んな発見に出会えている。これまでつまみぐい的に読んだり聞いたりしてきたことが繋がってきた感覚もある(ソシュールは「ゆる言語学ラジオ」で知り、フーコーあたりは入門書を乱読)。
とはいえ、まだ読み途中なので「どんな発見に出会えたのか」を人に説明できるほど(この場で言えば文章にできるほど)のインストールはできていないのだけど、その中で1つだけ、こうやってブログで文字にして記憶しておきたいと思える内容があったのでメモとして書き残しておきたい。
その1つとは、「零度のエクリチュール」などで知られるフランスの哲学者であり記号学者のロラン・バルトについて取り扱った部分である。
世の中のあらゆる事象や物事に記号を付与し、全てを意味で埋めつくすヨーロッパ思想的な考え方は、ロラン・バルトが目指す「零度のエクリチュール」とは程遠いらしいのだけど、そんなロラン・バルトが憧れたのは、意外にも日本の俳句だった。
零度のエクリチュールについて補足。「純粋無垢の言語」的な意味らしい。社会思想の影響を全く受けていない完全に中性な状態の言語。あらゆる作家は社会の影響から免れないので、ロラン・バルトの提唱する理論上、零度のエクリチュールを生み出せる作家は存在しない。理想としてはカミュが近いと彼は言っている。
ロラン・バルト曰く、俳句は全てに意味を付与するヨーロッパ思想的な考え方とは真逆の原理に基づいているそうで、「空」とか「間」とか、そういうヨーロッパ的には無価値とされるものに価値が与えられている点が物事の本質をついていて、零度のエクリチュールに近いのだとかなんとか。
私も正確に理解していないので表現が曖昧になってしまうのだけど、この「全てに意味を付与するヨーロッパ的な思想」と「余白に美しさを見出す俳句」の正対的な構図のイメージは、確かに実感するところだなと思った。
思い返せば、これまでつまみ食いで学んできた西洋哲学の多くは、とにかくすべての事象に意味や原理、法則を見出そうとしていた。
どうすれば人は幸福になれるのか、なぜ人は戦争をするのか、我々が疑問を抱く事柄にはどんな理由や意味があるのか。とにかく世界の全てを理解しようとしていた。多くの哲学者が「それらは理解できる」という確信と情熱を持って究明にあたっていた、と思う。
一方の日本における禅的な思想は、意味がない状態を受け入れるといったスタンスが強い印象がある。「空」や「間」という観念は、それ自体において目的や意味、意義が規定されておらず、「ただ在る(もしくは在るという概念すら持たない)」だけ。人間が創作した記号で無理に意味づけをしない、超自然的な状態。
日常に置き換えて考えてみる。例えば休日のスケジュールを考えるとき、ここぞとばかりに予定を詰め込み、それらを最も効率的に消化できる行動を心がけたことがある人もいるのではないだろうか。「せっかくの休みだから、普段できないことをたくさんしたい」という願望からそういう行動が生まれていると思うのだけど、その願望が生まれる思考の習慣自体がヨーロッパ的な思想に基づいている、と私は思う。「余白を無駄で無意味なもの」と考え、効率を最も重視する。いわゆる合理主義というものだ。(あるいは、その余白さえも休養や整理などの意味を付与し、有意味に変える)
「競争」が発展のために重要な要素を占める資本主義社会では、「いかに合理的な行動が取れるか」が他から抜きん出る上で肝要になる。少ない資本で最大の成果を上げるためには、効率が大切だからだ。
資本主義の中で生きている以上、大なり小なりはあってもそれと向き合うことは避けられない。仙人のような暮らしでさえ、完全に逃れることは難しい。
なぜなら、資本主義によって作られたインフラや人口管理システムを利用しなければ、国家という巨大構造の中で生きる権利を認めてもらえないからだ。「仙人なので」といって納税を逃れることはできないし、山奥に住んでもそれは国土の一部なので、国家のインフラを利用している構図になる。
国家=資本主義ではないので、住む国がヨーロッパ思想を必ずしも適用された国家であるとは限らないが、少なくとも現代における多くの国は資本主義という思想に基づいて自由経済を行い、国の発展に取り組んでいる。
こういう環境の中で生きていると、合理的な考え方を採択することは自然であると思う。そうしないと生きていくのが大変だからだ。
でも、合理主義のもとあらゆる事物に記号を付与し、全てを理解しようとする姿勢は、疲れるというか、私の中でやり切れない気持ちがある。ロラン・バルトが日本の俳句に余白の美しさを見出した気持ちもわかる気がするのだ。
資本主義の構造の中で生きる上では自然かつ必要なことなのかもしれないが、すべてに意味付け・理由付け・目的付けを行うことを求められるのは息苦しい。
何もかもが目的化すると、目的がないものは弾かれる文化になり、目的なしに行動することが無価値に思えてきてしまう。また、目的の設定も大変だろう。いかに有意義な目的を立てられるか?を常に迫られることになるからだ。さらにいえば、有意義の定義も難しい。何をもって有意義というのか。基準点を決めなければならない。
例えば、何かご飯を食べるにしても、合理主義が持ち込まれると、「有意義な食事とは何か」を考えなくてはならない。
健康・個人的嗜好・環境配慮、食事の有意義を定義付けるために用られる指標は、それこそ人の数だけあるはずだ。そんな中で何かを決めることは容易じゃないし、絶対的な正解があるわけではないので、永遠に比較ループを繰り返すことになる。
話が壮大になってしまったので、「意味の付与」に戻そう。
結局、何が言いたいのかというと、「合理主義的な意味づけに依存することは、今の世の中だとすごく自然な流れであるけど、実は人間構造的に矛盾を抱えている可能性もあって、そういう意味で意味づけの核を成す記号から離れ、余白に美しさを見出した日本の俳句という文化には、個人的に共感というか憧れの念を抱く部分がある」ってことが言いたいのだと思う。(この文章の通り、自分のことだけど自分もよくわかってない)
そういうことを言いたいとして、じゃあ何がしたいのかというと、「全部を有意味に考えるのはほどほどにして、曖昧な境界線の中で生きる感覚としっかり向き合う」ってことがやりたいのだという結論に至った。
この手の本を読み終えたとき、大体いつもこんな感じの結論になっている気がする。先日ブログにアップしたこちらの記事も、今回と似たような結論を出した覚えがある。
人間は自分にとって都合のよい考えや意見を採用しようとする傾向があるそうだ。いつも同じような結論に至るということは、自分が欲しい結論に導いてくれる本を無意識的に選んで読んでいるのかもしれない。だとしたら、自分の考えを補強するために本を読んでいるということなので、我ながら自我の強さに辟易とする。こういうことにならぬよう、あえて真逆の本を読んでみるのもいいかもしれない。
最後の最後でまたしてもテーマから遠ざかってしまったが、本稿の主題である「寝ながら学べる構造主義」は、本当に面白い本だった。記事の冒頭では読み途中と書いたが、記事を書いている間に読み終えてしまった。新書なので全体のボリュームが少なく、かつ入門書として分かりやすさが最優先されているので、私のように構造主義や哲学について知識が深くない人間でも、それほどの労力を使わずに読み進められる。
気になる人はぜひ読んでみて欲しい。