最近、磯野真穂さんという文化人類学者が書かれた本を読んだ。『他者と生きる リスク・病い・死をめぐる人類学, 2022/01/17, 集英社新書』という新書。ページ数はそこまで多くないながらも、とても読み応えのある本だった。
磯野さんが学者活動の中で積み上げてきたフィールドワークの結果を踏まえつつ、様々な学者の論説を丁寧に引用しながら、書全体を貫く“自らの主張”を論理的に立ち上げていく過程は、読んでいて引っかかる部分が少なく、また引用の丁寧さ(表現に気を遣われている感じが文章から伝わってくる)も心地よくて、重めのテーマだけど軽快に読めた。
個人的には、巷で言われる「自分らしさ」に対して、その違和感を様々な角度から丁寧に検証した上で捉え直している点が興味深かった。「自分」という存在は実存的であり確かに存在しているように思えるが、本来的な確実性はなく、その意味で個人主義に偏ることはその事実を見過ごすきっかけにもなりかね無い、つまり、私たちでありながら私でもある・共同体でありながら唯一性も帯びている。他者との関わりを通じて初めて自分というものが立ち上がる。この矛盾というか捉えようのなさが、人間らしさなのだと思った。
昨今の日本では「自分らしく」とか「ありのままで」とかそういうキャッチフレーズが生きる上での合言葉のようになっているけど、そもそも、その自分とは非常にあいまいなものであって、しかも他者との関わりによって成り立つものだとしたら、目指すべき形や在り方を「自分らしく在ろう」と画一的に定義したところで、永遠に答えは出ない。
カール・マルクスが「労働を通じてのみ自分が存在する(詳細な主張は曖昧だけどそんなニュアンスのこと)、つまり労働階級がなければ自分の存在を人間は識別できない」といったように、社会的な生き物である以上、社会の中で自分らしさは概念自体が存在し得ないというか、他者との関係においてのみ定義されるのだから、巷でいわれるような「自分らしさ=自分の内側にある衝動や想いに従って、ありのまま生きる」的な姿勢は、永遠に達成されない矛盾を抱えている、ということになる。
月並みな結論になってしまうけど、自分は本書を読んで「自分らしさとは、目の前の社会において、自己が他者とどう関わるのか?によって立ち上げられるものであり、社会や他者と共に移ろいゆく不確実性に満ちたもの」という認識に至った。
いわゆる『自分探し』が、自分というものがどこかにあって、それを見つけることだとしたら、私の認識とは食い違うことになる。
なぜなら、私にとっての自分とは、どこかに在るものではなく、生活の中で、構築と破壊を常に繰り返しながらぼんやりとした輪郭で形成され、さらにそれは自己だけでなく他者の中にも形成されるものだからだ。
うーん、自分でも言っていてよくわからなくなってきたけど、多分、結局は本書のタイトルの通り「他者と生きる」ということ、つまり視点を自分ではなく「社会の中の自分」に置くことが、生き方としてよいのではないかということが言いたいのかもしれない。