とても面白い小説でした。
原田マハさんの作品はいくつか読んだことがあり、読むたびに思うのですが、難しい言葉を使わずに心情や感情を的確に描写されているのが本当にすごい。
柔らかく親しみやすい表現なので、いつも心地よく物語に没入しています。
普段は割と男性作家の作品を読むことが多く、その中でも村上龍や中村文則のような”硬い文章”の作家を好んでいるのですが、ずっと読む続けていると少々疲れが出てくることがありまして……。
そんなとき、原田マハさんの作品を読むと、知らないうちに寄っていた眉間のしわが解かれるような心地よさを感じられます。
『総理の夫』を読んでの感想
さて、それでは小説『総理の夫』について感想を書いていきたいと思います。
今作、『総理の夫』は、タイトルの通り、日本初の内閣総理大臣となった妻の“夫”、つまり「総理の夫」を主人公とした物語です。
そのストーリーは、世界に名だたる企業であるソウマグローバルの次男として生まれながら、野鳥の研究員として研究所に勤めるマイペースな相馬日和が、日本を本気で変えるという信念のもと国際政治ジャーナリストから政治家へキャリアチェンジし、内閣総理大臣まで上り詰めた妻の相馬凛子を支えるというもの。
夫婦の物語でありながら、女性の社会進出やジェンダーの在り方について強く考えさせられる作品です。
“ジャンヌダルク”相馬凛子と不器用な相馬日和
今作、『総理の夫』の個人的な見所は、ジャンヌダルクの如き凛々しさで汚職だらけの政界を浄化していく凛子の痛快さと、それを不器用ながら支えようと頑張る日和の献身さにあるのではないかと思いました。
近年、男尊女卑をなくそうという動きが世界中で活発化し、以前に比べ、性別を理由に権利をはく奪される機会は目に見えて減りました。
女性は男性の3歩後ろを歩くように慎ましやかに在るべき、といった思想はもはや前時代の遺物。女性の主張も平等に尊重される世の中になってきており、働きやすさや仕事の待遇なども性差別のない基準が作られ始めている時代です。もし男尊女卑と捉えられるような言動の人がいたら、たちまちSNSで磔にされてしまうでしょう。
腐敗した日本政権
しかし、とはいっても、資本主義社会の上層部はまだまだ男性主導の利権がまかり通っている状態です。女性の権利が守られるようになったのは、あくまでもここ最近の出来事であり、そう簡単に社会の構造は一新されません。
政治の世界を見ても、それは顕著でしょう。女性の政治家はまだまだ割合が少なく、重要なポジションに座るのは大体のケースで男性の政治家です。
今後、性別による格差は是正されていくと思いますが、日本は国際的に見てもその動きが緩慢。たまに気が付いたように女性の政治家を持ち上げることがありますが、パフォーマンスと捉えられてしまうことも少なくありません(それでも、事実を作り、実績を積むことは大切だと思います)。
『総理の夫』の舞台は、今の日本がもっと悪い方向に進んだ状態です。
政治家は国民からの反発に怯え、やるべき抜本的な改革に踏み出せず、自己保身ばかり考える。国民もそんな政治家に愛想を尽かし、「何をしても無駄でしょ。誰がやっても変わらないよ」と未来に希望を持てない。
いまの日本に必要な“希望の光”
凛子は、そんな日本を変えるべく立ち上がった、希望の光といえます。
容姿端麗かつ聡明叡知。そして、清明正直。才色兼備を体現し、政治家として最も大切な誠実さを併せ持つ凛子は、保身に走る政治家たちをバッタバッタとなぎ倒し、国民に希望の光を与えました。
そんな凛子の姿に痛快さを覚えてしまうのは、私が今の日本に対してそれを望んでいるからなのでしょう。
「日本の鬱屈した雰囲気を変えてくれる、太陽のように明るく眩しい導き手がいてくれたら……」
「もしも、凛子のような総理大臣がいてくれたら……」
読んでいる中で痛快さを覚えながらも、現実世界をふと振り返ったときに、そのような思いが沸々と湧き上がります。
フラットな姿勢の“ニュータイプ”
そして、凛子を支える主人公の日和もまた、いまの日本に必要な導き手だと思います。
日和は、高度経済成長期以後に日本を支えてきた、屈強かつ図太い男性像とは違い、何事もフラットな態度で接し、性別で物事を区別しないニュータイプ。
いまでこそ、このニュータイプは違和感がないほど浸透し、人口も増えてきましたが、「総理の夫」が書かれたのは2011年前後なので、当時を思い返すと、時代を先取りした存在であることが伺えます。
その証拠として、小説に登場する男性の多くは、「男は働き、女は家庭に入る」という思想の持ち主です。
ソウマグローバルのCEOを務める日和の兄に至っては、日和のフラットな姿勢を「日和見主義」と揶揄しています。
『総理の夫』は、いまから10年以上前に書かれたものですが、日和のスタイルはいまの時代においても重要なキーワードとなっているように思えます。
女性の権利を向上させようと特定の人間が踏ん張って、一時的にそうなったとしても、それを受け入れられる男性がいなければ元の木阿弥です。
一見、受け身とも取れるその姿勢を嫌う人は多いかもしれません。しかし、こういった人間がいなければ、押しの強い利己的な人間ばかりになってしまいます。そして、そういった人間にあらゆる利権が集中してしまうでしょう。
その先に待っているのは、格差の拡大による貧困問題。いずれはそういった貧困層の不満が爆発し、革命が起こされ、国家を揺るがす問題に発展してしまう恐れもあります(ちょっと大げさですが)。
凛子は、自分ひとりの力だけで事を成したとは思っていません。日和のサポートがあったからこそ、戦い抜けたといっています。
日和は、凛子が総理大臣に就任して間もないころ、何も役目がないことに悲しみ、自信を失っていたことがあります。凛子のそばであたふたしているだけで、何もしていない、お飾りの夫なのだろうか、と不安になっていました。
しかし、さまざまな出来事を経て、日和は「何もできないけど、凛子を信じることはできる。そしてそれが、凛子の力になる」という確信を得ます。
そしてそれは実際に凛子の力となり、力強く彼女を支えました。総理の夫として、立派に役目を全うしたわけです。
これまでの日本は、男が外に出て働き、女は家を守る、というのが当たり前でした。日和はそんな日本の風習を、総理の夫として自ら新しい生き方を選択することで塗り替えました。
まとめ
いまでこそ、凛子や日和の生き方は珍しいものではありません。しかしそれは、既存構造に疑問を持ち、少しずつでも改革の歩みを進めてきた人たちがいたからこそ在るものです。
「女性が総理大臣になる」というのは、いまの日本の状況では極端なことかもしれませんが、性差別をなくす流れが加速すれば、最終的に行きつく先のひとつではあります。
いずれ日本が、それくらい極端なことが極端でなくなるような、すべての人に平等に幸せを得る権利が与えられるような国になればいいですね。そのためには、凛子や日和のように、違和感のあるものに対しては、怖くても恐ろしくても、自分の意志を示せる人間が増えないといけないのかもしれません。
私自身、“事なかれ主義”で流れに身を任せてしまうタイプなのですが、これからは少しずつでも自分の意志を持って物事を選択していきたいですね。